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【黒川塾40】坂口博信氏の半生を振り返る:FF開発秘話から2017年新作予定まで

2016年9月29日、黒川文雄氏が主宰する「黒川塾(四十)」が行われた。記念すべき40回目のゲストは、『ファイナルファンタジー』の生みの親で、現在はスマホゲーム『テラ・バトル』を手掛ける坂口博信氏。

坂口博信氏が明かすFF開発秘話

記念すべき40回目を迎えた黒川塾。

今回は「坂口博信 人生のクリエイティブ」と題し、今もなお世界で大ヒットする『ファイナルファンタジー』シリーズの生みの親である坂口博信氏の半生を振り返った。

主催の黒川文雄氏。セガエンタープライゼス(現在のセガ)、デジキューブ、ブシロードなど、さまざまな企業でエンタメに関する流通や広告、企画開発、運営など、多岐にわたって活躍。あらゆるエンタメジャンルに精通したメディアコンテンツ研究家

ゲストの坂口博信氏。スクウェア(現スクウェア・エニックス)にて『ファイナルファンタジー』シリーズの開発を指揮。スクウェアを退社後、2004年にミストウォーカーを設立。現在は『テラ・バトル』を開発している

今回が黒川塾の記念すべき第40回ということで、スタッフから黒川氏と坂口氏に花束の贈呈が行われた

スクウェア入社時の時給は750円

最初の話題は坂口氏がスクウェアに入社する以前について。

高校時代の坂口氏は本や映画にお小遣いを費やす青春時代を過ごしていたと話す。

とくに、ハヤカワ文庫の『エルリック・サーガ』シリーズなどのファンタジー小説をよく読んでいたという。

ちなみに、『エルリック・サーガ』の表紙を描いていたのは、のちに『ファイナルファンタジー』のキャラクターデザインを務めた天野喜孝氏だった。

その後、横浜国立大学工学部電子情報工学科に進学した坂口氏は、当時最先端だったパソコン「Apple II」のクローン品を入手。自ら改造しながら使っていたという。

そして、黎明期のコンピューターRPGである『ウィザードリィ』や『ウルティマ』に夢中になった。

まだ、コンピューターRPGが日本になかったころ、坂口氏のほかにも、のちに『ドラゴンクエスト』を作る堀井雄二氏も『ウィザードリィ』や『ウルティマ』をプレイしていた。

配線や基板をいじるのが好きな学生だったらしく、当時のパソコンの改造法などアンダーグラウンドな遊びを坂口氏は手振りを交えて解説

そして、ゲーム開発への興味から、クラスメートだった田中弘道氏を誘い、当時、電友社のソフトウェア部門であったスクウェアにプログラマーのアルバイトとして入社する。

求人情報では時給1,500円と書かれていたが、「先輩のひと言で750円に減らされてしまった」と苦笑いで当時を振り返った。

ファミコンでRPGを作るのは不可能だと思っていた

スクウェアで坂口氏が最初に担当したのは、「鳥人間コンテスト」のゲーム。しかし、開発が進んできた段階で、「鳥人間コンテスト」の権利を取っていないことが発覚し、開発中止になってしまう。

そこで発奮して作ったのが、クリエイターとしてのデビュー作になるアドベンチャーゲーム『ザ・デストラップ』。

制作にあたって、ゲーム中の絵を描くデザイナーとして、美大から女の子を3人採用する。しかし、当時はまだゲームのグラフィックの技法が確立していなかったため、油絵風の絵が出てくる状態。

結果、坂口氏から何度もリテイクが出ることになり、女の子たちからは「ゴブリン坂口」と異名をつけられて嫌われていたという。ちなみに、同期入社の田中氏は女の子たちから人気があったという。

そして、のちに『ファイナルファンタジー』にかかわるメンバーが集まっていく。

石井浩一氏は、リーゼントに革ジャンといういで立ちで面接に現れ、「僕が描いた絵です」とかわいいキャラクターのイラストを提出。そのギャップに驚かされたという。のちに石井氏は「チョコボ」や「モーグリ」を生み出すことになる。

石井氏からの提案で、『ファイナルファンタジー』のキャラクターデザインに迎えられたのが天野喜孝氏。高校時代に小説の表紙で、その絵を知っていた坂口氏だったが、それが天野氏だと、その時まで気づかなかったという。

そのほか、『ザ・デストラップ』のときに採用したデザイナーの女の子の紹介で、当時スクウェアがあった日吉のレンタルレコード店でアルバイトしていた植松伸夫氏も参加するようになった。

坂口氏が出演するとのことで、客席には当時スクウェアに在籍していたスタッフが駆けつけていた。当時の思い出を振り返りながら、客席にいる元同僚に話を振るなど、かつてを懐かしんでいた

意外なことに、当初、坂口氏は「ファミリーコンピュータ」でRPGを作ることに反対していたのだという。

当時の「ファミリーコンピュータ」のソフトには、セーブ機能がなかったため、RPGを作っても全滅したら最初からゲームをやり直さなければならず、坂口氏が満足するものは作れないと判断していたのだ。

しかし、1986年にエニックスから『ドラゴンクエスト』が発売。セーブ機能の問題を、「ふっかつのじゅもん」という形で解決したことに「衝撃を受けた」と坂口氏は話す。

これをきっかけにスクウェアでも総力を結集して『ファイナルファンタジー』を制作。バッテリーバックアップでデータをセーブできる機能を搭載し、今日まで続く大ヒットRPGの誕生となった。

それでも、堀井雄二氏や鳥山明氏が作る『ドラゴンクエスト』は、坂口氏からすると「プロ集団で雲の上のような存在」だったという。

しかし、負けず嫌いの坂口氏には「同じように『ウィザードリィ』や『ウルティマ』の影響を受けているのだから、自分たちだって負けないはずだ」という思いもあった。

そこで、坂口氏は『ファイナルファンタジー』を『ドラゴンクエスト』と並ぶRPGとして認めてもらうため、週刊少年ジャンプ編集部を訪れ、当時編集長だった鳥嶋和彦氏に熱烈なアプローチをする。

最初は鳥嶋氏から厳しい言葉をもらっていたが、その執念が実り、ついに『ファイナルファンタジーVI』でついに少年ジャンプの誌面で取り上げてもらうことに成功。

坂口氏は当時の思い出として当時の『ファイナルファンタジー』について「キャラクターが立っていない」と鳥嶋氏はバッサリ切り捨てられたと明かす。

その言葉で目からうろこが落ちた坂口氏は『ファイナルファンタジーIV』以降、個性的なキャラクターを生み出してゆく。

ちなみに、黒川氏もセガ時代にジャンプ編集部にアプローチをかけていたそうで、アキラのコスプレで『バーチャファイター』の筐体を編集部に届けて鳥嶋氏に顔を覚えてもらったという

32ビットゲーム機戦争の裏側

続いての話題は、「PlayStation」で『ファイナルファンタジーVII』を開発した経緯についてに移った。

1994年にセガ・エンタープライゼス(現セガゲームス)が「セガサターン」を、ソニー・コンピュータエンタテインメント(現ソニー・インタラクティブエンタテインメント)が「PlayStation」を相次いで発売。

この2つのゲームハードのあいだで行われた激しい競争は、今日では「32ビット機戦争」と呼ばれている。

坂口氏によると、当時、多くのメーカーがどちらのハードでゲームを出すか慎重に見守っており、先に100万台セールスを達成したハードでゲームを出そうという風潮があったという。

そんななかで先に100万台セールスを達成したセガサターンに、流れが傾いたかと思われた。

しかし、坂口氏は、当時『ファイナルファンタジーVII』を開発するにあたって、1枚でも多くポリゴンを表示できるハードが必要だったという。

そのうえで、坂口氏はPlayStationを開発した久夛良木健氏が、業務用のデジタルビデオエフェクタ「システムG」をゲームに転用した技術に惚れ込んでおり、PlayStationでの開発を選んだという。

スクウェアが『ファイナルファンタジーVII』の開発を発表したことにより、PlayStationは大躍進を遂げることになる。

映画『ファイナルファンタジー』への挑戦

そして、話題は坂口氏が監督も務めた映画版『ファイナルファンタジー』へ。

映画DVDを持参した黒川氏。2001年に公開され世界初のフル3DCGの映画として注目を集めた。ゲームの映画化は今日ではめずらしくなくなったが、映画監督も務めたゲームクリエイターは坂口氏しかいない

映画制作の理由として坂口氏は「ハリウッドといっしょに仕事をしてみたかった」と話す。

当時、持てるCGの技術を詰め込んで発表した『ファイナルファンタジーVII』だったが、同年に公開された『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』を見て、そのCGの差を痛感し、ハリウッドのCGの技術に追いつくために、映画制作に踏み出した。

ハリウッドからスタッフを呼ぶためハワイにスタジオ設立。スタジオの場所を探すときには、当時から坂口氏と交流があった黒川氏も同行。その後、黒川氏は紆余曲折あってスクウェアの子会社であるデジキューブに入社する

しかし、映画について坂口氏は「作り切れなかった部分もある」と話す。

物語が壮大になりすぎてしまったことで、終わりが見えなくなってしまい、なんとか形にするために泣く泣く完成させることになった。

日本のゲーム開発者は、伝えたとおりのものをツーカーで作るスタッフが多いのに対して、ハリウッドから来たスタッフは自己主張が強く、必ずしも伝えたとおりのものになるとは限らないという。

一方で、ワークフローや進行管理などは欧米のほうがきっちりしていたと坂口氏は、ハリウッドのスタッフといっしょに仕事をして感じた、違いを明かした。

スクウェア退社、そして『テラバトル』へ

映画完成から間もなくスクウェアを退社した坂口氏。

その後、3年間、ハワイで何もせず過ごしていたが、ある時「社会貢献していないことへの後ろめたさを感じた」という。

そして、1人きりの状態からの再スタートした坂口氏は、ミストウォーカーを設立。スクウェア時代の人のつながりもあり、鳥山明氏と『ブルードラゴン』、井上雄彦氏と『ロストオデッセイ』をリリース。

ある時、『ファイナルファンタジーVII』のCGスーパーバイザーだった橋本和幸氏からプログラマーを紹介され、初のスマホ向けゲーム『Party Wave』を開発することに。

しかし、リリースしたものの1日3ダウンロードと、まったく振るわない結果に……。その当時について坂口氏は「当時はスマホでのゲーム開発について不勉強だった」と振り返る。

これがきっかけで、スマホゲームの開発や運営について研究を重ね、『テラバトル』を開発。

総ダウンロード数に応じて著名なアーティストの参加やゲーム内の新モードの追加、グッズ制作が開始される「Download Starter」が話題となり、2016年9月30日現在は260万ダウンロードを達成している。

最近では、250万ダウンロード達成で俳優の加山雄三氏による背景画の実装が決定。200万ダウンロード達成で決定したコンシューマー版も開発が進められているそうだ。

2017年にはスマホで新作を発表予定!

最後に、現在関心を持っていることを黒川氏に尋ねられた坂口氏は「ニコニコ生放送」と即答。

配線マニアだという坂口氏は、今回のイベントの直前までミストウォーカーの公式生放送収録用スタジオの配線をいじっていたという。

「現在のユーザーの欲求は、情報を発信したいという方向に変わりつつある。だから、その最先端にいることで、次が見えてくる」と生放送への思いを語る。

また、『Pokémon GO』もプレイしており、黒川氏から『Pokémon GO』について感想を聞かれると、「皇居の周りはミニリュウが多いね!」と笑う坂口氏。今は「ポケモンGOプラス」がほしいとのことだ

そして、最近、「ゲーム作りのなかで自分は何がいちばん好きなのか」と考えたという坂口氏は「自分は世界観を作っていくのが好きなのだ」と改めて気づいたのだという。

スマホ用も家庭用ゲーム機用も、新作を開発中とのことで、来年のリリースを目指しているという。「コンシューマーに近いスマホタイトルを出したい」と話す坂口氏。その野望はまだまだ終わらない。

ハワイと日本を往復しながら精力的に活動する坂口氏。新作はどんな作品になるのか楽しみだ

(C) MISTWALKER