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【黒川塾35】迷走からの復権! スクエニ復活のカギとなった和田洋一氏の施策

5月31日、黒川文雄氏が主宰を務める「黒川塾(三十五)」が、『株式会社スクウェア・エニックス・ホールディングス』の元代表取締役社長である和田洋一氏をゲストに招いて行われた。

和田氏がスクエニで見たゲーム業界のビジョン

「黒川塾(三十五)」のテーマは、「ゲームビジネス潮流観測」。スクウェアの経営者として、当時どのようなビジョンを描いていたのか。

そして、和田氏の視点から見た、過去から現在、そして未来へと至るゲーム業界の趨勢が語られた。

今回のゲストとして登壇した、和田洋一氏。015年より、株式会社メタップス社外取締役に就任

なぜ、スクエニはデジキューブを見捨てることになったのか?

最初に黒川氏は、自身も取締役を務めた、スクウェアの設立したデジキューブについて、なぜ連結を解消するといった見捨てるような形になったのか、ストレートに和田氏に質問をぶつけた。

デジキューブとは、ゲームのコンビニ流通やゲーム映像を流す「デジキューブチャンネル」など、新しい試みで注目を浴びるも、2003年に倒産している。

和田氏がスクウェアに入社した当時、デジキューブは脚光を浴びていたが、その裏で売れ残った返品を100%受け付けるというデメリットを負っていた。

そのため、マーケットが冷え込んだ場合、一気に売り上げが落ち込む危険をはらんでいたという。

さらに、そのときのスクウェア自体、経営がスレスレの状態になっており、へたをすると共倒れになる可能性まではらんでいた。

それを防ぐため、見捨てる形になってしまったが、連結対象からデジキューブを外す選択をとったそうだ。

ただ、デジキューブ自体は、映像を用いてゲームに自分たちで価値を付けるなど、サービスとしてかなり最先端な試みを行っていた。

今でこそニコニコ動画やYoutubeでメジャーになっているゲームプレイ動画を、デジキューブはすでに2000年の段階でやっていたのだ。

インターネットが一般にも普及し始めた2005~2006年ごろにデジキューブがあれば、かなり大きく化けたのではないかと和田氏は推測している。

そして、そのときのデジキューブの新しい発想が、国内で続けてくれる人がいなかったのは、非常にもったいないことだと語った。

まさにカオスな状態だった和田氏着任時のスクエニ

続いて、和田氏が社長に就任したときのスクウェアの内情が話題に。

当時、2000年代前半のスクウェアは、映画興行の失敗やハワイのスタジオ、さらに大量の子会社と社員を抱え、まず自分たちを改善する必要に迫られていた。

さらに和田氏は、着任した2000年の5月に、スクウェアの財務部長、営業部長、法務部長など、ほとんどの部門のトップが一気に退職したことを告白。

かなりひっ迫していた状況だったという。

なぜ、スクウェアがそんな状況にまで追い込まれたのか? その理由として和田氏は、新事業にばかり注力していたため、本業がおろそかになっていたと分析する。

当時、スクウェアが抱えていた新事業は、デジキューブ、映画、そしてプレイオンラインの3つ。

どれも狙いはいいのだが、映画は製作期間の長さから割りに合わず、プレイオンラインも自腹でやったため、すべて資金を投入する事業になっていたそうだ。

そして本業であるコンシュマーゲームでは、就任当時、FF9とFF10を除くと、大きな売り上げが見込まれるタイトルがない状態だった。

そこで和田氏は、まずデジキューブを連結対象から外し、映画からも撤退する。

実は映画事業は残したかったそうだが、2作目の案がない状態で、数百人の雇用を数年続けるのは無理だと判断したそうだ。

プレイオンラインは、和田氏自ら、集英社の鳥島氏などに「お金は払えません」と頭を下げに行ったという。

1つ1つ清算していった和田氏だが、プレイオンラインの『FFXI』だけは、かじりついてでも最後まで残すことに決めたそうだ

このように、経営に対して大ナタを振るった結果、エニックスとの合併を行うときには、最高益を記録したそうだ。

改革に乗り出すため、オーナーの宮本氏に直談判

和田氏は就任当時、それほど長居する気はなく、会社の経営状況を整えたら、すぐに次の人物に引き渡すつもりだったという。

ただ、フタを開けてみたらあまりにもヒドイ状況だったため、そんな甘いこともいってられず、結果的に15年もの間、就任することになった。

また、スクウェアが不振となった理由として、開発陣の力が強すぎたという声も聞こえるが、和田氏いわく、開発サイドではそれほど致命的な失策は犯していないそうだ。

ただ、当時『FF』を生み出した坂口博信氏は国外におり、後を引き継げるだけのリーダーシップを持った人がいないという問題はあったという。

それでも、スクウェアがあそこまで危険な状態になったのは、経営の問題だったと和田氏は語った。

また、スクウェアを改革するためには、かなりの強権が必要だと感じた和田氏は、スクウェアの創設者である宮本雅史氏に直談判。

「(普通のやり方では)もう間に合いません。ボクがやるならやりますし、そうじゃないなら辞めます」と伝えたところ、「お前はまだ(社長には)早い」といわれたそうだ。

それでも契約解除などには、代表権が必要になる。そのため代表取締役社長兼CEOという役職に就任することになったという。

ちなみに、和田氏がスクウェアに就任する前、宮本氏の面接を受けた場所は、ビーナスフォートの隠し部屋だったそうだ。

最高益を記録してからのエニックスとの合併

スクウェアとエニックスの合併は、当時のゲーマーなら知らない者はいないほどのビッグニュースだった。

しかし、なぜ合併する必要があったのか。その理由について和田氏は、スクウェアが目指した2つの成長戦略を挙げた。

まず1つが「ユーザーとの接点を増やす」こと。

それまでスクウェアは、任天堂やセガ、マイクロソフトなど、ソニー以外のメーカーにまったくタイトルを供給していなかった。

任天堂とスクウェアの不仲は、古参のゲーマーたちの間では今でも語り草になっている。和田氏が取引を開始するまでは、「京都の地を踏むな」といわれるほどだったそうだ

そのため、PCやアーケードのタイトルが作れず、ユーザーとの接点がかなり限られた状況だったのだ。

そして、もう1つが「グローバル展開」だ。

当時、北米ではエレクトロニック・アーツとジョイントベンチャー、ヨーロッパではソニーがスクウェアのタイトルを扱っていた。

タイトルは世界で知られてはいたが、スクウェア自身はそれほどグローバル展開していなかったといえる。

今後、欧米のゲーム市場が伸びていくと感じた(当時、中国は考えていなかったそうだ)ので、スクウェア自身も国際化を図る必要性を感じたという。

これら2つを考慮し、和田氏はエニックス以外に、ナムコなども視野に入れていた。

そこでエニックスに決めた理由が、エニックスが新興市場のアジアに進出しており、さらにネットゲームに注力していた点。そして、モバイルコンテンツだったそうだ。

買収した2つのパブリッシャー「アイドス」と「タイトー」

合併し、スクウェア・エニックスとなってから、和田氏は今までの主流商品であるRPG以外、アクションゲームなどにも注力するため、さまざまな会社を買収する。

ただ買収する際にもルールがあり、自社IPを持つパブリッシャーでふるいにかけたという。

中でも、イギリスのパブリッシャーであるアイドスは、かなり自社IPが多かったそうだ。

しかも買収金額が、リーマンショックで2,000億から200億まで下がるという幸運もあり、買収を決めたという。

日本のパブリッシャーであるタイトーは、当時、アメリカではキッチンで主婦がプレイするカジュアルゲームが主流だったのが理由の1つ。

タイトーは自社IPで豊富なカジュアルゲームを持っており、それが目にとまったそうだ。

2010年にFF XIVが引き起こした再度の危機

スクウェア・エニックスとなり、さまざまな子会社を吸収し、順風満帆に思えていたが、2010年に再び危機に陥る。

その理由となったのが、ごぞんじの人も多いだろうが、FF XIVの失敗だ。

和田氏はFF XIVが失敗した理由については、特に誰の責任とも言及しなかったが、そのためにスクエニの屋台骨がガタガタになったという。

話の中で和田氏は、当時のスクエニのビジネスモデルを3階建ての建物で説明した。

それによると、土台となる1階部分として、だいたいの売り上げが見込め、手も打ちやすいFF XIVなどのMMORPG。

2階に、クッション的な扱いでブラウザゲームなどの「Free-to-Play(F2P)」。

それらを元手に、3階部分のコンシューマーゲームを、根本的に修正していくといこう構想だった。

しかし、FF XIVの不振によって、それらすべてが崩れ去ってしまった。和田氏自身、2010年ついに倒れてしまい、逃げ出したいとまで思ったそうだ。

和田氏はこの失敗の理由として、新しい試みを行ってきたが、スクエニ本体の成長につながっていなかったと分析する。

それからは、クリエイターのみならず、人事や財務の人員に対しても、社内で勉強会や研修などを行い、社内全体を成長させることに尽力したそうだ。

そうすることでスクエニは、スタープレイヤーに頼らずとも、人気タイトルを出すことができる、再現性を持った会社になったという。

最近は、スマホゲームでもさまざまな人気タイトルを出しているが、今までの苦労が実ったというところだろう。

新しいチャレンジには新しいIPで挑戦

今まで、PCであったりスーパーファミコンであったりスマホであったりと、ゲームのプラットフォームは幾度となく変化してきた。

パブリッシャー側としては、新しいプラットフォームで出すタイトルは1つの大きなチャレンジである。

そのようなチャレンジを行う際の助言として、和田氏は坂口氏に、「新しいチャレンジをするときにIPを使え」と教わったそうだ。

例を挙げれば、オンラインゲームではFF XIを、任天堂からソニーのプレイステーションに移った際は、FF VIIを出し、どちらも成功を収めている。

そのため、最初は和田氏もその考えに沿っていたのだが、ネット環境が本格化し始めた2005年ごろから、「新しいチャレンジこそ新しいIPで作る」という考えに変わったという。

その理由が、ゲームの動作環境における違いだ。PCやプレイステーション、スマホなど、動作環境が変わると、UIやグラフィックといったゲームの性質以外に、客層までも変わってしまう。

そのため、逆に同じIPを使うのは、絶対にやってはいけないことだと、和田氏は思うようになったという。

動作環境が新しく移る際は、例え粗削りでもヒットする可能性があるため、新しいIPでチャレンジする格好の場でもあると和田氏は語る

ゲームの規制問題

ゲーム業界のマーケティングの話がひと段落し、次に和田氏が理事を務めたCESAの話題になった。

CESAは東京ゲームショウやCEDECなどを開催している業界団体だが、同時にゲームの表現規制であるCEROにも関わっている。

ゲームや漫画といったエンタメの表現規制は、多くの人が議論を交わしながらも、今なお解決していない問題の1つでもある。

和田氏が理事になった際も、「表現の自由」を訴えるクリエイター側と、「何を作ってもいいわけではない」と主張する規制派がいたそうだ。

当時、両者の議論がこじれており、そのまま放置しておくと、不買運動まで起きかねない状況だったため、CEROを新設することになったという。

そして現在の規制問題である、スマホゲームのガチャについても言及。

和田氏は、ガチャの本質的な問題として「射幸性をあおる」点と「未成年が使用する」点の2つを挙げ、デジタルの価格付けに定義がない今、規制を先手で打つべきだと意見した。

業界側から提示しなければ、承認欲求やコンプリート感にお金を払うという概念を説明できない限り、過剰な規制を押し付けられる危険もあるという。

規制は絶対にダメというのではなく、まず規制ありきで、そのガイドラインを自主的に作ることが、今のスマホ業界にも求められているといえる。

これからのゲーム業界の展望

和田氏は、これから新しいコンピュータを構成するものとして、VR(仮想現実)、AR(拡張現実)、IoT、クラウド、AI(人工知能)を挙げた。

これらの知見をためることが、数年後にきっと結果につながると、和田氏は主張する。

なお、現在のスクエニは、その中でも特にAIに注力しているという。

数年前から学生を対象にした「スクウェア・エニックス AIアカデミー」も開催しており、和田氏の思惑どおり、未来に向けて人材育成に力を注いでいる段階だといえる。

また和田氏は、AIとクラウドを学習しつつ、仕様が固まってきたら、投資だけではなく、とにかく作ることが大事だと強調。

投資やIPを提供するだけでは、それが何なのかを理解することができない。そのため、例え失敗しても、作り続けるべきだと、熱く語った。

さらに和田氏は、今後の展開次第では、日本のゲーム業界が復活するかもしれないと期待をのぞかせた。

その理由として、日本のゲーム業界は、アーケードを手掛けつつ、PCもコンシューマーも作っている、ソフトとハードの両方を手掛ける唯一の存在だからだという。

世界中で盛り上がりを見せているVRやAR、AIなどの新技術は、復活を果たしたスクエニのように、再び日本のゲーム業界に光を灯してくれるのか。大いに期待したい。

先日、藍綬(らんじゅ)褒章を受章した和田氏。ゲーム業界の出身である自分がこの賞をとれたのは、それだけゲーム業界が認知されてきた証拠だとも語った