[黒川文雄のゲーム非武装地帯] 第41回: 血族の王朝「コナミ」コンテンツは誰のものか?(最終章)

私事で恐縮だが、ゲーム産業とゲームのクリエイティブというカテゴリーで、クリエーターやプロデューサーを、メディアを通じて一般に知らしめることに尽力してきた。

というのは、私がセガ(当時はセガ・エンタープライゼス)に在職していた1993年当時、会社の基本的な方針として、ゲーム開発者の名前を一般に出すことは禁じられていた。

と同時に、関わっている誰もが、一般に名前が出ることをあまり考えていなかったと思う。理由は外部からの「ヘッドハント」、それとスタッフ側も名前を出すことにあまりこだわりがなかったと記憶している。

もう1つの理由は、コンテンツのスタッフロールにあった社員が退職して、過去の作品への権利主張をしたときのことを考えて敢えて関わったスタッフの名前を出さないというものだ。

映画宣伝的手法であったクリエーターのメディア露出

セガに入社する前の私は、ギャガ(当時はギャガ・コミュニケーションズ)に在職しており、映画の配給宣伝業務に携わっていた。

そのため、映画宣伝に不可欠な「監督作品の新作」やら「アクションスター◯◯◯の最新作」などの宣伝惹句(じゃっく)を、パブリシティといわれる(当時は主に紙メディアでの記事)露出を多用して劇場集客に務めた。

これは私に限ったことではなく、当時から今に至る映画宣伝のセオリーのようなもので、よくあるのは「全米ナンバー1」「世界が泣いた」的なものから、さきに挙げた「◯◯◯監督作品の新作」というものがある。

さて、これらの映画的な惹句や宣伝的なキャッチコピーの何が優れているのかは、みなさんもおわかりだろう。過去の類似作との想像や比較、もしくは過去にヒット作品を持つ監督やスターによる作品のイメージアップや集客への意識づけだ。

それら映画的宣伝手法を用いたのは、セガでは私が最初だったのではないだろうか。このあたりのエピソードは機会があれば紹介したいが、この手法が確立すると、次は関わったクリエーターの「名前」が独り歩きするようになった。

そして、その事実はゲームメーカーにとってはよくもあれ、痛しかゆしの問題を含むようになった。

クリエーターやプロデューサーのクレジットの功罪

前回のコラムでとり上げたように、コナミが創業して、変遷していく中での経営者としての気持を想像して書いたくだりがある。

この連続シリーズの最後に取りあげるのは、「コンテンツは誰のものか?」という根源的な課題となる。

先に書いたように、クリエーターの名前を出すことでゲームコンテンツは作品の認知度のアップや品質への責任を高めてきたフシがあるのは読者のみなさんも感じているだろう。コナミももちろん例外ではない。

しかし、それが会社側(コナミ)から見れば行き過ぎたことになったと感じていたらどうだろうか?

現在のゲームコンテンツは、1980~90年代前半までの開発とは異なり、大人数による完全な分業開発体制に変わった。

宣伝マン、プロデューサーはクリエーターをコントロールしてメディア露出やパブリシティ記事を活用してきた。しかし、ある程度の知名度や活躍実績(=作品としての評価)が高まると、その個々人のバリューが独り歩きすることになった。

これらがゲーム会社上層部にとっては、それは徐々にやっかいな出来事になってきた。結果として、2000年代に入ると自分たちで推進してきた露出強化策の返礼を受けることになる。

コンテンツは誰のものなのか?

例えば、ある著名なコンテンツを手掛けたプロデューサーが退職することになると、そのプロデューサーの手がけたコンテンツは「もう、その会社から出ないのではないか……」とファンに憶測されることを経営の上層部は大いに嫌う。

しかし、実際には「それらのコンテンツは会社のものであって、個人のコンテンツではない……」ということだ。

ある時期に、同じ会社に就業した個人たちが集まり、その創作と商業活動の結果としてのコンテンツが生まれた。しかし、逆も真なりで、そのクリエーターも、その会社に出会ったことで生まれたコンテンツであるともいえる。これはある種の相乗効果であり、創作活動の科学的な変化の結果である。

おそらく、会社側としては、該当するクリエーターが退社しようがしまいが、元々コンテンツは自社のものという意識が強い。ゆえに、レベルを過度に超えたクリエーターの露出や評価は会社側にとってはデメリットに近いモノになったに違いない。

では、コナミではどうだったのか?

それらの事象がコナミでも散発的にあったという。それゆえ、2011年ごろに端を発するガラケーのソーシャルゲームではことごとくキャラクター色が弱まっていった。当時の上層部は「キャラクターはなくてもいい」という方針を打ち出した。つまり、既存のコナミコンテンツIPを否定的に考えるような風潮が生まれたという。

また、「肌色」の露出の多いコンテンツも自粛させる方針になり、徐々に過去の著名なIPの続編もクローズしていくようになったのもこの時期と重なる。大きな組織で数年かけて開発を行う家庭用ゲームの採算率の悪さもそれらの要素を加速させたという。

ちなみに現在は、コンテンツに関わったスタッフやクリエーターを外部に露出させるか否かはすべて「許可性」に変わった。各コンテンツの公式サイトなどにあった「A HIDEO KOJIMA GAME」や、「内P」などの表記も削除されていったことはみなさんもご存じのことだろう。

つまり、小島秀夫氏以降はコナミのクリエーターが記名で露出することがなくなったことを見れば明らかだろう。

大前提で書き記したことと矛盾するが、極論すれば、ユーザーにとっては「誰が創っているかではなく、誰が創っていてもいいけど、面白くなければ嫌だ……」ということに尽きる。

小島氏の新作『デス・ストランディング』に期待が集まる

私は、コナミを代表するクリエーターであった小島秀夫氏が取り組んでいる『デス・ストランディング』に関して注目している。

先のE3での発表も見送られ、現時点でどのような作品なのかをコメントするのは難しいが、ハリウッドのスタークラスのキャスティング(CGモデリング)が成されているという。映画『処刑人』で脚光を浴び『ウォーキング・デッド』に出演するノーマン・リーダス、ギレルモ・デル・トロ監督、マッツ・ミケルセンなど錚々たるキャスティングである。

よくこれだけのキャスト(モデリング)をそろえられた……という小島さんの力量と影響力には驚かされる。

しかし、キャストが実在のハリウッドスターという設定の際、果たして従来のゲームユーザーたちは戸惑うことはないのだろうか? 小島氏が今まで創り上げてきたゲームキャラクターたちは基本的にはオリジナルのキャラクター(※)たちだった。

※とはいえ、個別にモデルはおり、スネークは『ニューヨーク1997』のカート・ラッセル扮する「スネーク・プリスケン」

今回のキャラクターたちは実在のハリウッドスタークラス、もちろん全部のキャラクターがそうだとは思えないが、果たして実在のスターがゲーム内で映画のように活躍することに違和感はないのだろうか。

今までのキャラクターは、たとえモチーフやオマージュがいたとしても、それらはオリジナルのキャラクターだった。果たして、実在のスターをベースにしたゲームのキャラクターに対してゲーム・ユーザーが感情移入をできるのだろうか? という疑問があるのだ。

とはいっても、小島氏の門出の相応しい壮大な実験的なプロジェクトは応援せずにはいられない。すべての制約や、すべての過去の因習にとらわれない斬新な作品を心待ちにしている。

会社とクリエーターのよりよい関係を目指して

性善説に基づいて、会社と個人、それが完全にイーブンな立場で何かを共有し合うことは難しいかもしれない。しかし、おたがいにそのときに、何かが足りなければ完成しなかったコンテンツやプロジェクトがある。そして、双方がそれに対して相応の敬意と出会いの感謝をもって臨めば解決をすることもあるのではないかと思う。

この先、ゲーム開発、シナリオ開発、システム開発もどんどんAI(人工知能)などによって自動化されていく可能性も高い。著名なクリエーターだと思っていたら、実はコンピューターで創られたヒト型AIロボットなんてこともあり得る。

しかし、AI研究の先駆者、AIの父であるマービン・ミンスキー(Marvin Minsky)はこういった。

Entertainment for the next Millennium(1989年7月)

「次の1,000年、エンタテインメント以外に人間ができることはない」

そこにはAIが進歩しても、焼き直し的なコンテンツではなく、人が介在することで生まれるエンタテインメント的な発想や要素が求められているのではないだろうか。今、改めて、会社、個人などの意識が介在するコンテンツの意義を見直して、よりよい関係を構築してみるチャンスかもしれない。