大阪で2回目の黒川塾37開催
7月4日(月)に、「黒川塾37」を大阪で開催することができた。大阪での開催は約2年ぶりで、今回はゲーム系ミドルウェア・ツールの展示会であるGTMF 2016大阪の前夜祭として開催した。
のぞみ号で新大阪駅に到着して驚いたことは、街を歩いているアジア系の旅行者の数が東京よりも多いのではないかということだ。
東京でも、それらの観光客も多いのはもちろんなのだが、大阪ではどこを歩いても、休日の銀座通り並みに平日からアジア系旅行者であふれかえっているという印象だ。
その「黒川塾37」が終わり、週末の9日には京都でBitSummit 4thが開催された。BitSummit 4thでは、ソニー・インタラクティブエンタテインメント(以下、SIE)の吉田修平氏、七音社の松浦雅也氏(『パラッパラッパー』や『ビブリボン』の開発者)のお二方相手に、私がモデレーターになるトークセッションで盛り上がった。
そのセッションの準備と久しぶりの休暇を兼ねて、7日から京都に滞在して過ごすことにした。
街や国がブランド化するということ
京都の町も大阪と同じように、アジア系外国人、欧米系旅行者が多く滞在している。京都の古(いにしえ)の魅力は世界的なブランドとして知られていることを強く印象付けられた。
町(街)の存在自体がブランドになり、その町が人を集めるという文化が生まれた土地は関西圏のほうが東京よりも歴史が古い分、自然と演出がうまかったのではないだろうか……。
東京は江戸幕府からの歴史だが、関西圏はそれよりももっと古い歴史と文化に彩られた魅力にあふれていることは誰しもが認めることだろう。
それは大きな意味でいえば、日本という国自体が世界から注目を集めるブランドとなっている。
関西圏でいえば大阪、京都、関東では東京、九州では福岡、北海道では札幌や冬季のニセコなどのスキー場がそれに当たると思う。
同じようなことは、ヨーロッパの歴史のある国々がそれに当たる。
ドイツ、スペイン、ギリシャ、フランス、イギリスなどは農業、工業が発展した国であるが、他国からの観光客を多く迎え入れる「観光資源=町(街)」のブランド化がいち早く進んだ国々といっても過言ではないと思う。
ストックとフロー
BitSummit 4thのトークセッションで登壇した松浦雅也氏の話がとても興味深かったので引用したい。このセッションでは私がモデレーターで、松浦氏と吉田氏の話を引き出す役割を担った。
吉田氏は、主にSIEで強力に推進しているPlayStation VR導入に向けた伝道活動の話をしていただいた。
吉田氏自身が「以前はインディーズ(コンテンツの導入を促進する)おじさんでしたが、今はVR(コンテンツやハードの普及を促す)おじさんになりました」といっていたように、VRという新しいエンタテインメントを促進する役割を担っている。
一方の松浦氏は、もともとPSY・S(サイズ)という音楽ユニットで活躍をして一時代を築いた。
1990年代に入って、ソニー・コンピュータエンタテインメント(以下、SCE)が展開した新しいコンテンツ開発を促進するクリエイターとして『パラッパラッパー』『ウンジャマラミー』『ビブリボン』など、音楽をゲームに取り入れる先進的なチャンレンジ精神あふれるコンテンツを発表した。
その後、「たまごっち」のDS版などを手掛けてきたが、2016年5月にスマートフォン向けのコンテンツ『古杣(ふるそま)』をリリースした。
私がいちばん印象に残ったのは、松浦氏の「コンテンツにもストックされるものと、フローしていくものがある」という話だ。
「現在、スマートフォンというプラットフォーム上で、数多くのクリエイターたちがたくさんのコンテンツを導入することができるようになったことはよろこばしい」としながらも、「果たして、その中でどれほどのコンテンツがストックされ、残って行くのか気になっている」
そして、「できる限り多くのコンテンツがフロー、つまり消えていくものではなく、20年経っても人の心に残るものであってほしい」ということをいっていたことが強く印象に残っている。
スマートフォンが普及し、ゲームポータルとしての存在感が増した一方で、フローしていくコンテンツも増えてしまったと思う。
一時的にはある程度のヒットはするものの、それが永続的に残るかどうかが難しいものになってしまったということだ。
中には、人気を博してコンテンツの並行展開が実現したものもあるが、果たしてそれらが20年後もストックされたコンテンツとして輝き続けているかどうかは判断が分かれるのではないだろうか。
トークセッションが終わり、自由な時間の中で京都の町(街)を散策してみると、この町(街)にはストックされた有形無形の歴史や文化にあふれていると感じた。
それは人生と同じで、日々の積み重ねによるもので、一朝一夕では実現しない何かがある。流れて消え去っていくフローではなく、そこに蓄積され、さらには増幅されるストックという意識は誰もが意識はしないが、誰もが肌で感じることのできる経済学かもしれない。