【究極ゲーマー列伝】: ニコ動運営長のドワンゴ中野氏のゲーム人生が壮絶すぎ(前編)

今回は、niconico(ニコニコ動画)の運営長として知られているドワンゴの中野真さんの知られざるゲーマー時代にスポットをあてていく。ゲーム好きが高じて仕事となり、ついには大学を辞めてドワンゴの初期に携わった中野さんの究極ゲーマー人生を紹介。

夜通しゲームをして大学に行かなくなりました

――かなりコアなプレイヤーであったとお聞きしています。ゲームとの最初の出会いは?

中野真さん(以下、中野):この世界でいうと、PCの『DOOM 2』ですね。大学にPCがあり、LANが組んであったので、気軽に対戦ができたんです。ただ、友だちとゲームするだけでは飽き足らなくなってきました。

当時『DWANGO』(※1)という通信対戦サービスがあり、そこに強い人たちがいるということで、高い電話代を払って(※2)そこにつないで遊んだらハマって、川上(※3)と出会い、あれよあれよという間に……。

株式会社ドワンゴニコニコ事業統括本部戦略的ETC事業本部企画制作部の中野真さん

――ということは、DWANGOに関わったのは、最初は仕事ではなくプレイヤーとしてだったんですね。

中野:最初はプレイヤーですね。で、「プレイヤーイベントで、大会をしたいから協力して」といわれて、当時上野にあったソフトウェアジャパンに呼ばれて、そこで川上に初めて会いました。

そのとき、その後ドワンゴの社員となる人たちもそこにいて、当時はみんな学生でしたね。

そのときの大会は『Warcraft 2』でしたが、DWANGOのサービスの中で、やたら運営がWarcraft 2を推していたんですよね。たぶん、川上が好きだったせいなんですけど(笑)、はやってました。

『Warcraft 2』はブリザードが1995年(日本版は1997年)に発売したリアルタイムストラテジー。『Warcraft』は後に、ゲームの最多登録者数でギネスブックにも登録されたMMO『World of Warcraft』へと発展していく

DOOM 2はモデムで3~4人で対戦すると、どうしても重くなってしまう。LAN対戦と比べるとレーテンシーの問題でいい試合ができないんです。一方、Warcraft 2は多少遅延があってもわかりにくいので、その方が主流でしたね。

※1:『DWANGO』はDial-up Wide Area Network Gaming Operationの略称。現在の日本の会社とは異なり、元々はアメリカのInteractive Visual Systemsが運営していたサービスを指す。

※2:インターネットが普及する以前は、通信代金は固定料金ではなく、かけた分だけかかる料金制度だった。そのため、電話回線を使った通信対戦は電話代がかかり、当時は「みかか代」(NTTをキーボードでうつと「みかか」になる)としておそれられていた。

※3:現在のドワンゴ代表取締役会長にして株式会社KADOKAWA取締役である、川上量生さんのこと。

――ゲームのオフ会に初めて行ったのはいつでしたか。

中野:大学時代の『DOOM』ですかね。Niftyのフォーラムで強い人がいて、その人のお宅に夜な夜なLAN対戦をしに行ったのがおそらく初めてです。

あとは、P&Aシェアウエア(以下、P&A)で『Duke Nukem 3D』をやったり、KALI(※4)では『Warcraft』のオフで大阪にも行ったりしました。

※4:初期のWindowsなどでの、遠隔地とのオンラインマルチプレイを支援するソフト。

――ご自宅にPCはあったんですか?

中野:あるにはあったんですが、最初はPC-9801のヘボいマシンでDOS/V(PC-AT互換機)じゃなかったんです。DOOM 2のPC-9801版を買ったんですが、重くて試合にならなくていやがられました(笑)。

しょうがないのでがんばってバイトして、秋葉原でPCを買いましたね。その後、Duke Nukem 3Dの大会がありました。

その大会の場所が、今のAKB48劇場のある場所です。当時はゲーム大会できるスペースでして、そこでP&Aの方々と出会い、それからは立川で夜通しゲームをしに行き、学校へ行かなくなるという……(笑)。

――それは大学何年生のときだったんですか。

中野:大学1年の夏あたりですね。大学は経営情報を専攻していたんですが、ほとんど出ていなかったので何も学んだ記憶がないんです。

その後、ソフトウェアジャパンが倒産し、ドワンゴが作られる前に、川上の住んでいた埼玉の草加に集まっては、「サーバー検証」という名目のもとに毎晩遊んでいました。そのときは『Age of Empires』ですね。

現在、スマホでプレイできるAoEとしては、Age of Empires: World Dominationがある

川上会長とはゲームの中での戦いで言葉をかわしていた

――川上さんも「人生でいちばん遊んだゲームは『Age of Empires』かもしれない」とおっしゃっているのを聞いたことあります。

中野:そんな気がしますね。川上とのいちばん密なコミュニケーションを取っていた時期です。言葉じゃなくて、「ゲームの中での戦いで言葉をかわした」時期です(笑)。

ドワンゴが有限会社として1997年に立ち上がり、僕は1998年に入社しました。というのも、1998年の4月に大学を1単位足りず留年してしまったんですね。

で、「暇なのでバイトさせてください」といったら誘われたのがドワンゴだったんですけど、いつの間にか社員になってました(笑)。

最初は川越に住んでいたんですが、プログラマーとして入社して、いきなりドリームキャストのサーバーを作れといわれ、家に帰る暇がなくなりました。

そうしたら、会社の近くに部屋を借りてくれたので、そこに引っ越しました。あとで聞いたら、「そこに住めば長時間働けるだろう」という話だったんですけど(笑)。

もう、そのころになると家にほとんどいなかったので、自宅にあったタワーPCを会社に持っていき、私物と会社PCを並べて仕事しながらゲームをしてました。

当時は『Ultima Online』(以下、UO)をやっていたので、ひたすらマクロでキャラクターを育てながら、仕事のプログラムを組む(笑)。

でも、自分が遊んでいたドワンゴのサーバーも僕が作っていたので、作ったものを自分のPCで検証ができ、結果としてはよかったんです。

リチャード・ギャリオットが生み出した『Ultima Online』は、それまでのRPGの概念を大きく変え、「MMO」という新ジャンルを作った。世界中で話題になり、日本発売時には徹夜で並ぶ人もいた

――一応仕事ということで(笑)。

中野:はい、一応仕事です。ドワンゴ設立とUOがほぼ同時期でしたね。

UOのベータテスト時は、仲間が夜な夜なUOをしてたのですが、見つからないように「word.exe」とかにファイル名を書き換えて、こっそり遊んでた……そんな時代でしたね。

Ultima Onlineでは悪名高きPKギルドに所属

――UOでギルドは作っていたんですよね。

中野:作ってました。「Colleague of Sanctuary」、略称でというと「CoS」というひどいギルドでしたね……。CoSの犠牲者が、今まさに弊社の社員にいます(笑)。

「UOやってました」という話をしてたら、「CoSにギルドをつぶされて、ギルドストーンを海の遥か彼方に捨てられました」とかいわれて、思わず「すみませんでした!」というしかないという(笑)。

――当時の悪行を教えていただけますか?

中野:悪行は……仲間がとにかくすごいんです。僕はあまりメインでやっていませんでした。

覚えているのは、初めてUOにログインしたら、いきなり殴られたんですよ。仲間がギルドハウスを建てていたのでそこに入った瞬間、「特訓するぞ」と言われて2秒も立たないうちに死にました。

殴り合っているうちに名前が赤くなって……。UOで遊び始めてまずやったことは、名前を赤くすることでした(笑)。それからはPK(Player Killer)としての道を歩み始めました。

周りが強くても、僕は後発だったのでよく死んでましたね。

当時はPKを倒すことに快感を覚える人たちもけっこういて、PKされた人たちが集まってきて戦争みたいになりましたね。それが楽しかった。UOは本当に面白かったですね、すべてが新しい体験で。

でも、その後に仕事が大変になってプレイできなくなり、UOはそのままフェイドアウトしてしまいました。「大和大戦」とかいちばんおもしろい時期にプレイできなかったんですよね。CoSの悪名が広まったのに……。

家の中でDaemonを召喚し、訓練でDaemonを攻撃し、戦闘スキルと魔法抵抗を鍛える。別名:修行

――ドワンゴでやっていたのなら、テレホーダイとかも関係なく遊べましたか?

中野:それはもう最高でした。入社して何よりもよかったことは通信費がかからないことでした。

でも、あとで聞いたら、僕や川上などはテストと称して会社からサーバーにつないでAge of Empiresをやっていてそのまま寝落ちしてしまうこともあったせいで、社員が実質5人程度なのに電話代が月100万円超えていたこともあったそうです。

接続しているサーバーはほんの数メートル先にあるのに、わざわざ電話回線を経由してつないで100万円払うという。そういう意味で、川上はいろいろと大変だったと思います。

――中野さんが仕事で担当されていたのは、ドリームキャストの『セガラリー 2』と『バーチャロン』の通信部分だったんですか。

中野:はい。今は笑い話ですが、当時『バーチャロン』の仕事を思い出すともう辛くて……。

そのせいで、僕が会社に来てゲームしかしてなくても何もいわれなかった時期がありましたが、そのときは川上が「今、中野は休憩期間だから」と気を利かしてくれたらしいんです。

一方の川上は、そのときの息抜きで着メロサイトを作ったら、それが大当たりしちゃいました(笑)。

Diabloで留年しました

――当時は『Diablo』もプレイされてましたか?

中野:初代のDiabloは、まさに僕が留年したきっかけです(笑)。夜な夜なDiabloをやって、朝8:00に2時間だけ寝て試験に行こうとしたら、起きたら夕方だった。

というのを5日連続でやったら単位が足りなくなりました。Diabloのせいなんです、留年したのは。

Diabloが流行っていた当時のBattle.net。現在は、ハースストーンなどでも利用されている

――耳集め(※5)はしたんですか。

中野:それはしてないです。PKせず、Diabloでは真っ当に遊んでました。

当時はまだ学生だったので、ドワンゴではなく家で遊んでました。ただし、部屋にPCを2台おいて、ローカルで友だちと遊んでましたね。

※5:DiabloではPKをすると殺したプレイヤーの耳が手に入るため、PK行為を「耳集め」「耳狩り」とも呼ぶ。

――ぜひ、当時の武勇伝とかエピソードがあれば教えてください。

中野:たぶん、日本人で最初に「Hell/Hell」をクリアしました(と、思っているだけかもしれませんが(笑))。レベル30ぐらいで「無理やり石化すればいけるじゃん」ってことに気付いて、友だちのめちゃくちゃ強い人と4人で組んで挑戦しました。

MPは全然なかったんですけど回復薬を買い込んで、後ろからひたすらストーンカースの魔法で固めて、無理やり突破しました。

まだBattle.netに入っても誰も勲章がついていないときに、自分たちだけHell/Hellクリアした勲章がついていて、「これ絶対、日本最速でしょ」と。

当時、日本でDiabloをやってた人がそんなに多くはなく、参加していたKALIの中でも最速だったので、おそらく日本では最初だったのではと。

僕の人生において、ゲーマーとして結果を出した頂点だったんじゃないかと思います。

Diabloでは、ユニークアイテムと呼ばれるレア装備があり、武器や防具の収集も大きな魅力だった

――その後は『EverQuest』(以下、EQ)ですか?

中野:EQですね。僕が仕事でいちばん精神的に大変だった時期で、いちばん長く遊んだと思います。トータルで1,200日ほどプレイしていました。

今遊んでいる『ドラゴンクエスト X』が1,300~1,400時間ですが、単位が違います。EQは「時間」ではなくて「日」なんで、24倍やっていたわけです。家でやって会社でやって家でやって会社でやって……を繰り返してました。

――中野さんを虜にしたEQですが、今思い返してみて「ここが面白かった」「革新的だった」というところはありますか?

中野:今どきのゲームと比べちゃうと、やっぱり単純というか、そんなにクオリティー的な見た目も大したことないんです。

でも、今までのゲームでEQのように集団で50~60人も集まって敵を倒すゲームはなく、ものすごい達成感があった。

EQベータテストでの1コマ。画面左のグリーンのキャラクターは、プロデューサーのBrad McQuiad氏

敵がとにかく頭おかしいと思うほど強いんですよ。自分のHPが5,000とかないのに、1秒で1万ダメージとか食らう。なのに、なぜかそれを倒せちゃうというがすごく楽しくて。

そこで、得られるアイテムにもすごく興味があった。

僕らはギルドではなかったんです。世界でもまれな「アライアンスレイドグループ」みたいな感じで、「他でやれていないことが、僕らはできているよね」というところに優越感を感じていました(笑)。

でも、EQはとても生活に負担がかかるゲームでした。毎日やらなきゃいけないし、夜中に全滅したら、朝までかけて自分のアイテムを回収しなきゃいけない。

プレイヤー仲間に歯医者がいたんですが、翌日眠気で「隣の歯を削りそうになった」とか(笑)。それぐらい、自分の育てたキャラクターに愛着があったし。

プレイしていたサーバーにEQの世界最強ギルドがいて、そこに自分たちを認識させられたのがうれしかったです。

――アライアンスグループは何人ぐらいいたんですか。

中野:登録数では200以上、1回で集まるのは50~60人でした。他のギルドの場合、人が増えすぎるとアイテムが行き渡るまでに時間がかってしまい攻略が遅くなる上、誰がいつ取ったかに公平性を持たすためにポイント制度なんかを設けていたようです。

僕らはそういうのをいっさいやらず、感覚だけでやってました。多少問題はありましたけれど、些細なことだったと思います。

複数のパーティーが集まって強力なボスモンスターに挑戦するレイド。倒したときに手に入るアイテムをめぐって、報酬の分配方法をいろいろと試行錯誤する必要があった

当時は僕が集まった人の名前を書き出し、役職をベースにその場で6人構成を作ってアナウンスして指示するまでを全部1人でやってました。

何人もいるし、画面見てもわからないから、たまに名前を呼び忘れちゃう。そうすると、ものすごい抗議がプライベートチャットで来て「お前はオレが嫌いなんだろ」とか、仲たがいして消えていく人もいました……。

チャットはローマ字を使った日本語と、外国人プレイヤーには片言の英語で話してましたね。

――まとめ役はずっと1人でやってたんですか。

中野:最初は誰もやる人がいなかったので、なんとなく1人でやってたんですが、あまりに大変だったので、途中からひまそうな学生に押し付けました(笑)。

――中野さん的に、プレイしていていちばん楽しいジャンルはRPGなんですか?

中野:正直、対戦ゲームでいちばん好きなのは『ボンバーマン』なんです(笑)。僕がこんなになったのは、高校時代のボンバーマンがきっかけです。

もともと対戦ゲームは好きだったんですけど、目の前にいる人間が、自分の行為によって顔がゆがむのが本当に楽しくて……(笑)。

大学でDOOMをやってたときも、すごく遠くから撃って連続で倒したりすると、隣で悲鳴が上がるのが最高に楽しくて。その魅力にハマっちゃったんです。ただ、EQはそういう楽しみとはちょっと違います。

EQは一体感が味わえるところがいい。何度も何度も挑戦してやられるんだけど、作戦を練りに練り直して、みんなで倒した時は本当にうれしい。

最初のころ、神様をかたどった「Statue of Rallos Zek」という強い敵に何回も挑戦して、それこそサーバーがおちるほど死体の山ができました(笑)。

僕たちプレイヤーの死体で地面が見えない。街の中で戦っていたので、死んだらBINDですぐ戻ってまたやられて戻るという無限ループにハマっちゃって。

通常プレイには問題のないハイスペックPCでも、カクカクして……。最終的には、みんな涙目でPCの電源を落としてました。あれは大事件でしたね。

死に過ぎでレベルが下がりまくり。EQでは死ぬとレベルが下がるという、日本のゲームでは考えられないほどシビアな仕様だったので、1ヵ月上げたレベルが5分で失われてしまいました。

でもそんな苦労があり、倒したときの「ざまーみろ!」という気持ちが本当に快感だったんですね。あれでハマってしまったなぁ……。

Statue of Rallos Zekを倒した後に挑戦できるVallon Zekは、EQの世界における神々の1柱。戦闘中に複数に分裂するため、レイド集団の統率が乱れると阿鼻叫喚の図に……

――「やった」より「ざまーみろ!」なんですか?

中野:その2つは、僕の中でイコールでした。限りかぎりない憎しみが敵に対してあったので。

――当時のPCゲームはかなりのスペックがないと遊べませんでしたが、ハード的にはどうそろえていたんですか。

中野:こまめに買ってましたね。でも、PCのスペックが低い人もいて、自分と同じ感覚では遊べていないので、そのへんはすごく気を使いました。「買え」ともいえないですし。

PCゲームは参加のハードルが高いので、プレイヤーは大切にしないといけない。新しい人は中々入ってこない世界だから、とどまってもらうためにみんな優しかったですね。

だから、「新参者は出てけ」とか「足ひっぱるな」とかいうのは、僕からすると信じられない。仲間がいるのは、それだけで幸せなことだと、当時は思っていましたね。

ゲームに誘おうと思っても、まずPCを買うところから始めなきゃいけなかったから。

EQでは3キャラクターを足を使って操作してました

――EQ時代は、寝ても覚めてもゲームでしたか? 1日のプレイ時間は?

中野:EQは人がいないとできないので、21:00以降から夜中の2:00、3:00がメインのプレイ時間帯でした。あとは1人でレベル上げするなど、長いとトータルで10時間ほど。最大3台のPCを使い、1人で3キャラクターを操作してました。

メインキャラクター以外に、サポートと補助魔法や回復役。3アカウント同時でやって、最終的には足でキーボードを押してました。

これぞMMORPGの醍醐味といえる多人数での攻略。画面に入りきらないほどのキャラクターが中央の敵に対峙している。戦力アップのため、複数のキャラクターを同時に操作するプレイヤーも多かった

――え、足で?

中野:両手でマウスとキーボード、足でキーボード(笑)。……ホントなんですよ。回復だけだったら、ターゲットを合わせてボタン押すだけですから、足で押せるじゃんって。それを延々と3時間ほど。

――中野さんにとって、ゲームは何だったんですか。ある意味、趣味の域を超えている気がするんですが。

中野:生活そのものですね。特に、KALIの時代が長かったんですが、ネットの人たちとコミュニケーションを取っている時間は、毎日テレホタイムの8時間ぐらいあった。

顔を見たことがない人もいるけれど、ある意味では家族以上に話している。その人たちとのネットを介したコミュニケーションがゲームだったんです。

チャットも楽しいけど、身体とか五感を通したコミュニケーションはチャットではできないじゃないですか。その代わりがゲームだった気がするんです。

KALIの画面。現代のオンライゲームのようにグラフィカルなロビーがない当時は、文字ベースでのコミュニケーションのみだった。それでも、夜な夜なチャットしつつ、ゲームを楽しむのがゲーマーの日常であった

なので、普通に遊んでも楽しくない。騒ぎをおこして面白おかしくゲームを楽しもうとしていたのは、そういう感覚からだったのかな。

もし、普通に事件もなくUOなどで過ごしていたら、それはそれで楽しいけど長く続かなかったと思います。

PKでも、プレイヤーを殺したいとかではなく、戦いを通して人とコミュニケーションをしたいと。僕らの仲間はわりと「PKを演じて」ましたね。

アイテムは取らず斬り倒すだけとか、面白い命乞いをした人は逃がしたりとか。PKは、いわゆるチート行為と違うと思ってやっていました。

後編に続く